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妖怪

三蔵法師は悪魔に捕まる(陈惠冠作)

西遊記に於ける悪魔は「現在に存在する努力」を中断する思考、感情と感覚を象徴する。

仏陀と悪魔はただ二つの状態を示す。一つは汚く、もう一つは純粋である。-- 臨済義玄(9世紀の中国の禅僧、臨済宗の開祖)
実は、悪魔というのは人間の低次の自己と情念である。-- フジウィーリ (11世紀のペルシャのスーフィーの学者
情念は悪魔である。 -- バルサヌフィアスとジョン、『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)

中国の禅僧である臨済、スーフィー(イスラム教の神秘主義者)であるフジウィーリ、キリスト教の修道士であるバルサヌフィアスとジョンは皆、悪魔は人間の低次の部分を象徴すると言っている。



「道の心」を復元したい場合は、最初に人間の心を理解する必要がある。しかし、人間の心を理解するために、それを見ることが重要である。人間の心を豚のように、悪魔のように見ろということは、真の人間の心理を見て、それはどんなに有害であるかを見ることである。-- 劉一明(道教の易経)第三十八の卦「睽」の解説)

「現在に存在しよう」とすると、人は自分が現在何をしているかと同時に、自分自身に気付こうとする。この状態を継続するために、「存在(Be)」または「今」という短い言葉を使って自分を喚起することができる。

一つの戒めだけで我々がすぐに天に登ることができるのは本当に奇跡である。-- シナイのグレゴリー、『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)
なぜこの一つの音節の短い祈りが天国を貫くのだろう?-- 匿名な英国人のモンク

普段、人々は健康またはある計画の成功などという外的なことを得るために祈る。しかし、祈ることの内的な意味は短い言葉を使って現在に存在すべく自分を喚起し、それから「現在に存在する努力」をすることによって、「内なる神」が現われるようにお願いすることである。

アラビア語の「祈り」という言葉は内的に「神の想起」を意味している。-- フジウィーリ (11世紀のペルシャのスーフィーの学)者
意識的な気付きこそが儀式の祈りの精神である。-- アル・ガザーリ(11世紀ペルシャの神秘的なスーフィー

自分が、悪魔や動物に象徴されて現われる思考に耳を傾けはじめるならば、その分割された注意(自分が現在何をしているかと自分自身に向かう注意)を継続することを忘れてしまうだろう。そして、自分に注意を払わなくなったから、その努力が止まったということさえも気が付かない。再び注意を分割し始めた場合のみ、我々は前にこの努力が止まったということに気づく。

私は見つけにくい悪魔の戦士インドラジットである。私は人目につかず、魔法によって視界から隠されている。
私は邪悪な思考の荒れ狂う風の背後から攻撃をしかける。 -- ラーマーヤナ(ヒンドゥー教のテキスト)
そのような侵入した思考と議論する心は、「神の想起」から逸らされる。悪魔が求めていることは、まさしくこのことである。-- アソナイトのシロアン、『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)

しかし自分の中に心猿がいるならば、何が起こっているかを観察し、その時また自分に「存在(Be)」を言って、「現在に存在する努力」を再び始めることができる。この努力により悪魔またはその思考を取り除いて、「神聖なるプレゼンス」または「ニルヴァーナ(涅槃)」を経験することができる。

一つの思考はすぐに百の化け物を妨げる。すべての因果関係を一掃し、涅槃に来なさい。時間を無駄にしないで、千の鬼を破壊しなさい。 --『西遊記』、第78章

悪魔は自分が息するごとに、「現在に存在する努力」を中断しようとするので、いくつかの「プレゼンス」を喚起する「真言」を続けて使うと、さらに良い。

私にゃ呪文が ありましてな、「定心真言」と申します。 --『西遊記』、第14章

「ライオンの巣の中のダニエル」の画像では、もしダニエルの祈り、つまり彼の「現在に存在する努力」が緩み始めると、ライオンはすぐに彼を食い荒らそうとしている。

ライオンの巣の中のダニエル (ルーベンス作、 十七世紀)

悟空は九つの頭を持つライオンの悪魔と戦う
(陈惠冠作)
















瞑想の沈静は、悪魔を生じさせる。 --『西遊記』、第40章
正しく祈りを行った後は、悪魔の襲撃を受けることを覚悟しなさい。しっかりと身構えて、祈りの成果を守りなさい。 -- 孤独者エヴァグリオス、『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)

悪魔は非常に巧妙であり、三蔵法師を掴まえるために頻繁に変装する。三蔵法師は「現在に存在したい」という願望を現す。悪魔が彼を捕まえるのは、自分が「現在に存在するための努力」以外の何かに興味を持つようになっているために、その努力が中断されていることを象徴している。

猿は女性を装った悪魔を殺そうとする
(陈惠冠作)

女性を装った悪魔とセント・アンソニー
(ロサンゼルス、ゲッティセンター、
十五世紀)


かくて、この化け物は、陰気な風を止めるや、地面の穴で体をひと揺すりしたものです。それで、月や花にも見まがう美女に変身したのでした。
--『西遊記』、第27章
サタンは、賢い、おしゃべりな若い男に変装して、王の前に謙虚に登場した。-- 王のペルシア語書籍





これらの引用は、「低次の自己」が魅力的または興味深い思考をもたらすがゆえに、人がそれらに耳を傾け始め、そうすると現在の瞬間に注意を払うことに忘れてしまうことを象徴している。 「低次の自己」はプレゼンスに興味がない。なぜならば、プレゼンスの状態が発生するためには「低次の自己」は受動的になる必要があり、物事を制御することがはできなくなる。 「低次の自己」はできるだけ、「現在に存在するための努力」を取り除こうとする。

ああ神よ、哀れな声で安楽と休息と喜びを切望する臆病者の私から私自身をお守りください。 私自身が自分の大敵であり、自分の最も空虚な友であり、自分の最悪の仇であり、私が進むいかなる道でも足枷となるのです。
-- クリスティーナ・ロセッティ(英国詩人)

三蔵法師を捕まえた後に悪魔がいつも彼を食べたがるのは、「低次の自己」が「現在に存在したい」という願望を破壊しようとすることを象徴している。しかし、孫悟空は常に神の助けを借りて三蔵法師を自由にすることができる。

孫悟空と三蔵法師は蒸し器に入れられる
(陈惠冠作)

「最後の審判」悪魔が鍋に人々を入れている(ブールジュ大聖堂、十三世紀)





「さあ、唐僧を連れてこい。小者どもに、水を汲んで鍋を洗わせ、柴を集めて火をおこさせろ。やつを蒸して、おまえといっしょに肉を食らい、長寿を図ろうではないか」
--『西遊記』、第85章




「ライオンの巣の中のダニエル」と「女性を装った悪魔とセント・アンソニー」の画像に使われた象徴は、「西遊記」と同じである。ヨーロッパの大聖堂では、彫刻やステンドグラスの窓に聖書の物語が描かれた。秘教的な伝統の作品は、時間と場所がかけ離れているにも関わらず、共通した内容を示しているのは、すべての秘教的な伝統の内面的な意味が同じだからである。

如来は三蔵に言った。「この経の功徳たるや、まこと量り知れぬぞ。われら、仏門の亀鑑たるにとどまらず、じつは三教の源流たるべきものである」 (仏教、 道教 、孔孟の教え) --『西遊記』、第98章

実際に、それらはすべてのスクール、すべての秘教的な伝統の起源である。



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英語のウェブサイト: The Secret of the Golden Flower ⎟ The taoist I Ching Being Present First