English 中文 日本語

 

神仙

悟空は悪魔との戦いに殆ど勝利することができないために、何回も天国に助けを求める。観音と仏陀は何回も悪魔を捕まえるために地上に降りてくる。またある時は、玉皇大帝や仏弥勒も助けてくれる。すべての秘教的な伝統のすべての神々は同じことを象徴しているために、西遊記では、仏教と道教の神々は一緒に天国に宿る。

 観音菩薩が悪魔を捕まえるのを手伝っている(陈惠冠作)
悟空はパッと身をひるがえして觔斗雲に跳び乗り、ただひたすら天竺をめざします。一刻(二時間)もたたぬうちに、はや霊山に近づきました。雲をおろし、鷲峰のふもとに着きました。如来仏祖は、九品の上に端座し、十八羅漢にお経を講じているところでしたが、すぐさま、「孫悟空が来たようだ。そちたち、入れてやりなさい。」如来は言いました。「悟空よ。なぜ三蔵と一緒ではないのか?」「いまようやく、獅駝嶺獅駝洞獅駝城までやってまいりました。ところが、ここにおります毒魔め、すなわち、獅子王・象王・大鵬の三匹でありますが、わが師匠をかっさらい、わたくしまでもが、いっしょに捕まえられ、蒸籠にて蒸されるという災難に遭ってしまったのです。」「あの妖怪ども、あまりに神通広大なるにより、さすがのそちも勝てず。」「あの妖怪だけは、わたしが捕まえにいかずばなるまいの。」悟空、叩頭しながら如来に申し上げました。「なにとぞ、ご降来くださいますよう。」
-- 『西遊記』、第77章


覚醒は3つの力の結果である。

三つの法則、三原則の法則または三つの力は、それはどんな規模とどんな世界に起こっているにも関わらず、分子から宇宙現象まで、すべての現象が三つの異なる相反する力の組み合わせ の結果であるという事実で構成されている。-- グルジェフ(20世紀第四の道の神秘思想家)

第一の力は天竺へ取経に行く三蔵法師と彼を保護する悟空に象徴される、自分の願望と努力である。 第二の力は否定的な力で、本能のセンターを象徴する猪八戒と「複数の私」を象徴する悪霊に例えられる。第三の力がないと、これら二つの力は互いに打ち消し合い、目的を達成することができない。

天からの助けを受けられないかぎり、人の準備と献身だけでは不十分である。同様に、私たちの側に献身と準備がなければ、天からの助けには益がない。このため、すべてを神にまかせて自分は眠り込んでしまったり、あるいは熱心に努力しながらも自分の努力だけで すべてを獲得できるなどと決して考えてはならない。
--
『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)
ご安心ください。神々がこっそりお守りしています。-- 『西遊記』、第16章

仏陀が悪魔を捕まえる孫悟空を助けている(陈惠冠作)

第三の力は神々に象徴される高次のレベルの助けである。神の内的な意味は「プレゼンスの状態」である。「高次の自己」が目覚めて「低次の自己」を観察している自己認識、または「プレゼンス」の状態がないと、「複数の<私>」を超越することはできない。この状態では、自分は存在するということに対して単に感謝しているし、すべての不安と否定的な感情、すべての悪魔は、太陽の下で溶ける雪のように消える。

修行は、精神的な気づきの努力に基づく。
-- 劉一明(18、19世紀、道教の老師)
もし私が、神が絶対的であり、すべての人間の経験を超えているという事実を受け入れるならば、彼は私と関係ない。 私は彼に影響を与えない、そして、彼は私に関わりを持っていない。しかし、神とは私の魂の中の力強い衝動であるということを知っているならば、私はすぐに彼と関わる必要がある。そうすれば、彼はすべての 現実の影響を及ぼす範囲内に属するものと同じように 重要になることができる。
-- カール·グスタフ·ユング(20世紀心理療法)

時に、悪魔は実は、天国では神の召使いであったということが分かる。例えば、老子の金银の炉の番をする童子たち、別の場合は例えば文殊菩薩の乗り物である青獅王、またはこの世のものに憧れて地球に降りてきた悪い星である奎木狼。悪魔が属する神が地上に降りて来て、悪魔を捕まえる。

獅子の上に座す文殊菩薩
「菩薩様よ…」猿(孫悟空)は言った。「奴は、あなたの宝座の下から姿を現わした碧い毛をもつ獅子ですよ」。菩薩は呪文を唱えて叫んだ。「真理へと帰れ、獣よ。何を求めているのか?」 するとようやく魔王は元の姿へと戻った。文殊菩薩は化物の上に蓮花をおいて飼い慣らすと、その背に座した。
-- 『西遊記』、第29章

これは、すべての否定的な力、すべての想像力、悩みや否定的感情は、実際には上から配置されていることを象徴している。最も高次の理解においては、すべての摩擦は、それを乗り越えることができるがゆえに与えられているということが分かる。人は、摩擦があったにもかかわらず「神聖なるプレゼンス」という目的地に到達出来たという訳ではなくて、その困難があったからこそ到達出来たのである。自分の人生において「現在に存在」するという最高の贈り物には、最高の支払いが必要となる。

宇宙を支配する法則によれば、すべての苦しみはあなたの本当の自己を明らかにするための愛の労働である。
-- メヘル・バーバー
(20世紀のインドの神秘的なマスター)
「あのふたりの妖怪はな、ひとりはわしの金炉の番をする童子、ひとりは銀炉の番をする堂子じゃったが、ふたりしてわしの宝ものをくすねて下界に降り、行くえをくらましおった。それを、そちがつかまえたというわけで、まことに手柄であったのう」。「これはご無礼つかまりました。ですがご老公、お宅の小者たちをほったらかしにして悪事をはたらかせては、監督不行届きの罪に問われますぜ」。「これは、わしのかかわらんことなのじゃ。なんも知らんくせに、他人のことを悪くとってはいかんぞ。じつはな、南海の観音がわしに三回もたのみにこられて、あの者たちを借りていかれたのじゃ。そして、この地に送って妖怪に化けさせ、そちたち師弟に、
まこと西天取経のかたい志があるかどうかをためされたのじゃよ」。-- 『西遊記』、第35章

実際には、行脚中のすべての試練は、神様によって作成されている。

四値功曹第二の門のたもとでは、五方掲諦・六甲六丁・護教伽藍といったた面々が、観音菩薩の前に進みでて申しますことに、「弟子どもは、さきに観音さまの法旨を承けて、ひそかに唐僧を守護してまいりましたが、唐僧の受けた苦難の数々は、とても言葉では言いつくせぬものでございました。唐僧が道中で経験した災厄苦難につきましては、わたくしども、すべてここに書きまとめてございます。これが、その災難簿でして・・・・・・」観音は、その災難簿を、初めからひととおり点検いたします。観音は、災難簿にざっと目を通すと、合わせて八十の難が記されている。これを見て観音は早口でこう言いました。「仏門では、九九(81)の数こそが真に帰すのだ。聖僧は、八十の難をすでに受けているが、それでもまだ一難が不足していて、九九の数を満たしておらぬの・・・・・・これ、 掲諦よ、そなた、金剛を追いかけて、もう一難だけ追加させなさい」。
-- 『西遊記』、第99章

第四の道と秘教的な伝統⎟ 日本文化におけるプレゼンスの象徴 神聖なるプレゼンスの技術


英語のウェブサイト: The Secret of the Golden Flower ⎟ The taoist I Ching Being Present First