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人間の存在が持つ多数性

西遊記について最初に理解すべきことは、物語の登場人物は、それぞれ人間存在のある特定の心理学的な側面を象徴的に示しているという点である。

間違いなく、あなた自身の外に「神々」も「悪魔」もいない。 ---- パドマサンバーヴァ(蓮華生)(8世紀のチベット仏教の聖人)

複数の<私>からなる解剖学的な頭部、フィリップ・バルビ





人間の心理は多くの部分から成り立っている。左に示す解剖学的な頭部の図では、頭部が多くの人間から構成されていることが分かる。

宇宙はあなたの手の中にある、一万の変容は自分自身から生まれる。 -- 黄帝陰符經
一万もの世界があり、それらすべての世界がひとりの人間の内面に存在しているが、人間がそれを意識することはない。-- ダルカウィ(18、19世紀、スーフィーのマスター)





ルスツムは竜を切り殺す、ペルシャのミニチュア、 十六世紀.

右に示すペルシアの「竜を退治するルスタン」の画像では、「低次の自己」を表している竜の体は多くの顔でできており、人間の心理を構成する数多くの存在を象徴している。秘教的な文献においては、人間の心理内にあるこうした多くの存在を象徴的な10,000という数で示している。

阿弥陀仏に南無仏よ!もしもおいらにまことの心や
まじめな気持ちがなく、天の掟を破ったときには、
おいらの体を一万の部分に切り刻んでください。
--『西遊記』、第19章
親愛なる、あなたの心は時としてとても気が狂ったように自分の中で「一万」の重要ではない物事について叫んで、街のすべての物を暴れて壊している牡羊のようであるというのは本当ですか?
-- 「ハーフェズ」 (14世紀のイスラム神秘詩人)

ゲオルギー・グルジェフ (1866-1949) は後に「第四の道」と呼ばれるスピリチュアルな教えを西洋に紹介した。グルジェフは、人間が感情的な脳、知性的な脳、運動的な脳、および本能的な脳という4つの異なる脳を持っていると説明している。運動的な脳と本能的な脳は同じエネルギーと速度で機能するため、これら2つの脳は1つの脳と見なされる場合もある。感情的な脳または感情センターは感情を抱き、「美」を経験する能力がある。知性的な脳または知性センターは、思考や理性として現れる機能である。運動センターは、運動し、物事を設計することができる機能である。本能センターは心拍、肉体の成長、感覚の活動、エネルギーの配分など、人体の機能を処理している。本能センターは人の誕生の時点ですでに完全に発達を遂げている唯一のセンターであり、その他3つのセンターは教育を受けなければならない。これら4つのセンターは環境からの刺激に継続的に反応し続けるが、こうしたセンターの反応は「一万の世界」と呼ばれている。グルジェフはこうした反応を「多数の<私>」と呼んでいたが、それは通常の心理状態における私たちがこうした反応を誤って自分自身とみなしているからである。私たちは自分たちのアイデンティティーを、経験された思考、感情、感覚で定義する。これに対して「本当の<私>」とは、純粋な気づき、自分の内部を巡っている思考、感情、感覚、さらに自分がいる場所への気づきである。人のアイデンティティーは「観察されるもの」ではなく、「観察するもの」の中にある。人は自分が誰であるかを気にすることなく、ただ (現在に) 存在するのである。

知性も思考も言葉もないときに、沈黙の中で、静寂の中で真実を感じなさい。あなたは一体誰であろうか?あなたはまさしく存在である。-- ヒンドゥー教のテキスト
神はモーセに仰せられた。「われは在りて在るものなり」-- 出エジプト記 3:14
私はこの肉体ではなく、この知性ではなく、これらの感情でもない。私は単に観察するだけである。私は永遠の目撃者である。-- 禅師

運命の輪、十五世紀(オランダ)

4つのセンターからのこうした思考、感情、反応はきわめて短時間しか続かず、絶え間なく変化し続けている。しかし、私たちは普段自分自身に気づいておらず、「自分を知らない」状態にあるため、自分が変わることのない同じ人だと考えており、自分の内部に存在している多くの異なる世界や存在を理解してはいない。これをひとたび観察し始めると、私たちは自分の中にある多くの矛盾に気づくようになるのである。

右に示す「運命の車輪」の画像では、回転する車輪の周りに動物たちが乗っているのが分かる。これらの動物は、絶えず変化している多数の<私>を象徴的に示している。ある時点で車輪の頂点にある動物がその瞬間の「私」であり、それぞれの「私」は自分が常にその位置にあるものと勘違いしている。実は、多数の<私>はおよそ3秒ごと(呼吸一回に相当する時間)に次の「私」に変化してゆくのである。


毎日私たちは数え切れないほど呼吸し、それと等しい数の空想にふけっている。
-- 『太乙金華宗旨』(黄金の華の秘密、道教の瞑想指南書)

秘教的な伝統においては、「多数の<私>」と「低次の自己」を象徴するために通常動物が使われている。

天の精神が人を治めるとき、人の獣性はその正しい場所におさまる。 -- 易経 (道教のテキスト)
魂が自然に反する状態にあり、感覚的な快楽の雑草や棘により勝手気ままにするかぎり、魂は奇怪な獣の棲み処のままである。-- 偉大なる禁欲者、テオドロス、『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)

「多数の<私>」は動物として描かれることが多いが、それは人間の動物的な本性を象徴的に示しているからである。この「動物的な本性」は人間存在の中にある「神聖な本性」の統一性と対象となっている。しかし多数の<私>はすべて同じ質やレベルだというわけではない。私たちには、否定的な思考、食物や性行為への本能的な渇望、またはより中立的な衝動があり、さらに、幸運な場合には「現在に存在する状態」を想起させる思考も私たちの中にある。

多くのことを観察した結果として、私は天使の思考、人間の思考、そして悪魔からくる思考の間に ある違いを見分けることを学んだ。 -- 孤独者エヴァグリオス、『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)
あなたは悪魔、野獣、天使、そして人間である。この内のどれを養うかに応じて、あなたはまさにそのどれかとなる。-- カシャーニ(17世紀、ペルシャの詩人)

チベットの運命の輪

仏教は「多数の<私>」を6つの異なるカテゴリーに分けている。それは「六道」と呼ばれている。こうした概念の外在的な意味とは、人が死ぬと輪廻により六道のどれかに生まれ変わるというものである。しかしその内的な意味は、六道は人の中にあるさまざまな多数の<私>を表しているということである。<私>は生じてからしばらく経つと死に絶え、別の<私>が果てしなくそれに続いてゆくのである。「六道」とは、地獄道 (例、否定的感情や他人を裁く心)、餓鬼道 (例、悪習慣と欲望)、畜生道 (例、運動および本能センターからの多数の<私>)、人間道 (例、知性および感情センターからの多数の<私>)、阿修羅道 (例、自己に対するワークに関連しているが、現在に存在する努力を呼び起こさない多数の<私>)、および天道 (例、現在に存在することを想起させる多数の<私>) がある。天道の存在者たちは不死ではなく、後で他の六道のどれかに生まれ変わることになる。(現在に存在することを想起させるが、「プレゼンス(現在に存在する状態)」そのものではない) 。

生涯とは生と死の瞬間の間にある時間ではない。生涯とは二つのちょっとした呼吸の間にある一瞬のことである。-- 禅の格言
厳密に言えば、生物の生命が持続する時間は極めて短かく、一つの思考が続く間しか持続することはない。ちょうど回転する馬車の車輪で、回転が車輪の一点だけで生じ、静止も一点だけで生じるように、まさに同じ仕方で、生物の生命は一つの思考が生じる間だけ持続するのである。-- 仏典、清浄道論 第8章、 39話
暗闇に入ると、性が乱れ、命が揺るがされる。一日で千回生まれ一万回死ぬ。
-- 「劉一明」(18、19世紀、道教の老師)     
邪念が生じないようにしてください、そうすると、すべての問題を避けることができる。何報復がないことでは言えない、神になるか鬼になるか、すべて決定される。--『西遊記』、第11章

これら6つの心の状態の、死と再生の無限のサイクルは、サンスクリットでサンサーラと呼ばれる。この概念は、ヒンドゥー教に由来する。

サンサーラは自分の思考にすぎない。-- ウパニシャッド(ヒンドゥー教のテキスト)

多数の<私>によるこの無限の輪廻 (サンサーラ) から逃れる術として、大乗仏教の伝統では、阿弥陀仏の「浄土」または「西方極楽浄土」に生まれ変わらなければならない。この「浄土」はプレゼンスの状態 (現在に存在する状態) を象徴的に指している。現在に存在するとき、人は多数の<私>を超越している。そして多数の<私>をあたかも何か自分の外側にあるものとして観察できるのである。

仏陀は菩提樹の下でマラの軍隊(プレゼンスから注意を
逸らそうとする一万の「複数の私」)を無視している。
(インド、3世紀、ワシントンD.C.、フリーア美術館)



万相がただ一つの理に帰するのは、沙羅双樹の下で釈迦が涅槃に入るのと同じこと。 --『西遊記』、第7章 

西遊記に出てくる仏は阿弥陀仏である。すなわち、西方極楽浄土に達して仏から経典を受け取るということは、「神聖なるプレゼンス」の状態に達することを象徴しているのである。

東土大国の坊さまが西方浄土に経を取りに行く。
 --『西遊記』、第86章 




無知な人が浄土に生まれ阿弥陀の名前を暗唱し祈っている間、悟った人は心を浄化する。心が純粋である限り、そこは自分の心の本質「西方浄土」である。-- 慧念(七世紀の禅宗の第六祖)

第四の道と秘教的な伝統⎟ 日本文化におけるプレゼンスの象徴 神聖なるプレゼンスの技術


英語のウェブサイト: The Secret of the Golden Flower ⎟ The taoist I Ching Being Present First